コラム

2012年5月2日  
著者

著者へのインタビュー【海上保安協会】

著者へのインタビュー【海上保安協会】
2012年3月8日発行の「東日本大震災 そのとき海上保安官は」の編集に携わった、海上保安協会の滝川さんと小川さんにインタビューを行い、この本を取りまとめるにあたってのお話をお聞きしました。

滝川さん、小川さんについて教えてください

滝川は(海上保安庁が発足した)1948年、富山県生まれ。1974年、毎日新聞入社。東京社会部、浜松支局長などを経て競馬面編集長、大学生の「キャンパる」編集長。毎日新聞を定年退職し2009年4月財団法人海上保安協会に入り、同年7月海上保安新聞編集長(同協会新聞部長)。海や海上保安庁については全く門外漢でしたが、毎日新聞時代の先輩が海上保安新聞編集長をしていて誘われました。
小川は1944年、母の実家の京都で生まれ。1968年、毎日新聞に入社。沼津支局を振り出しに、山形、秋田、埼玉、東京などでの取材、整理記者の他、埼玉西支局長や水戸支局長、首都圏情報班デスクなどを務め、退職後は週間の「税のしるべ」で整理を担当しました。
★海上保安協会は海の安全・安心を守るために海上保安庁の活動を支援。海上保安新聞の発行もその一環として行っています。
海上保安協会のホームページ

海上保安新聞とはどのような新聞ですか?

一般の人に海の安全・安心に関心をもってもらい、海上保安庁の活動を理解してもらうために1949年4月に発刊しました。週1回発行しており、昨年(2011年)7月12日号には3,000号となりました。海上保安庁と社会、一方では海上保安官同士をつなぐ役割を果たしており、またそうありたいと思って作っています。ただ、海上保安庁と社会をつなぐためには、海上保安庁の情報をそのまま掲載するだけでは不十分です。海上保安庁内の専門用語や考え方を、一般の人たちにも分かるようにして出さなくてはなりません。ときには逆のフィードバックも必要と感じることもあります。そうした意味では「門外漢」の元一般紙記者がつくることに意味があるのかもしれません。
読者は海上保安庁職員やその家族、OB、海上保安庁関係団体、海運や造船など関連業界、海上保安友の会会員、海の安全・安心に関心がある人たちです。

海上保安新聞の記者は、どのような取材を行うのですか?

海上保安新聞の紙面は記者が書いたものと、海上保安官や関係者の投稿からなりたっています。記者は普段、海上保安庁がある霞が関・国土交通省の11階記者クラブに詰めていて本庁内を取材。ときには全国各地にある管区本部や保安部署を訪れて取材します。東日本大震災では何度か被災地を訪れました。
投稿内容は、管区本部や保安部署が行った訓練や事件・事故処理の報告、巡視船艇や航空機、灯台などの見学会、哨戒中に見た珍しい風景や動植物など多様です。年間2,000通を超える投稿があり、取捨選択して掲載しています。特に、今回の東日本大震災では大地震・津波で大きな被害を受けながらも海上保安官として必死の活動を行った彼らの体験談を、「東日本大震災 あの時そして今」として掲載しました。保安部署など海上保安庁の拠点は海沿いにあり、いずれも迫力あるものでした。

写真集「東日本大震災 そのとき海上保安官は」は、どのようなきっかけでつくったのですか?

昨年7月の3,000号に併せて、「東日本大震災 海上保安庁の闘い」という写真集を出しました。写真は海上保安庁が撮影した約800枚の写真の中から選びました。それを見た成山堂書店から出版の話があり、両者でいろいろ話し合いました。私の中では、「東日本大震災 あの時そして今」など海上保安官の胸を打つ生の声を、海上保安新聞読者以外の一般の人たちにもっと知ってもらいたかった。また7月に出した写真集は時間的な制約もあって小さな判(A6判)で出しており、写真の迫力を十分に伝え切れなかったのではないかとの思いもありました。
<

製作で苦労したこと、気をつけたことを教えてください。

「東日本大震災 その時そして今」は計36本ありますが、ページ数の制約の中で自分の心により残ったものを基準に選びました。36本以外の、当時の紙面では(カットをつけずに)一般記事として扱ったものからも選択。大きくは
 「発生時・津波への対応(避難など)」
 「被災者救助・行方不明者捜索、被災地支援活動」
 「復興への動き」
の3部構成としました。震災1周年で出すことになり、
その時点での読者の視点を意識しながら編集作業を行いました。

写真は昨年7月時点で海上保安庁から入手していたものに、新たに入手した400点をもう一度見直して、記事との整合性を考えながら選びました。実際には毎週新聞を出しながらこうした作業を行うのは物理的に不可能で、先輩記者の小川さんに頼んで汗をかいてもらいました。
最後は日程的に厳しくなりましたが、成山堂書店の担当者の高橋さんには頑張ってもらいました。最後まで直しを入れ、ご迷惑をおかけしました。

小川:
保安官自身が書いた原稿に手をいれながらも、大震災と直に接した緊迫感や使命感をどう生かすか、大震災の凄さをどう知らせるかを念頭に置きました。基地専門官の指示の様子、沖へ避難する巡視船が、漁船などに避難指示をしながら沖へ向かう緊迫した状況、またそうした中の市民や同僚が無事だったときの保安官の胸のうちを紙面にするようにしました。提供された1,000枚以上の写真の中から、津波の凄さ、活躍する救難士など保安官の姿を分かりやすく表現した写真、また、瓦礫の中に咲く花にわずかだが安らぎを覚えるものなど選ぶのに何回も写真を見比べました。

この本を出して、反響はいかがでしたか? または良かったことは?

予想していたより好評でした。海上保安庁の鈴木久泰長官らにお渡しし、「よく作ってくれた」と喜ばれ、(海上保安庁と関係のない)知人からも「海上保安官は頑張っているんだね。写真も迫力ある」と驚かれました。
「海上保安庁ってどんなことしているのか?」と聞かれることがありますが、この本を見せれば「なるほど」と納得してくれます。東日本大震災での海上保安庁の活動を分かりやすく記録に残せて良かったです。

小川:
これまで自衛隊や警察、消防などに焦点が当たりがちな震災報道に、海上保安庁の活躍も知らせることができたのではと思っています。

被災地を取材して感じたことを教えてください。

被災地に最初に入ったのは4月初めで、仙台航空基地と第二管区海上保安本部(いずれも宮城県内)を訪れました。マイカーに支援物資を積んで東北自動車道から入りましたが、海沿いに走る高速道路まで達したとき、高速道路の海側の光景はそれまでと一変。まるでじゅうたん爆撃されたような風景が白っぽく広がっていました。仙台航空基地や二管本部の人たちと話し、みんな疲労困憊しているはずなのに未曾有の災害の中で活動していることに何か高揚感に近いものを感じました。7月初めには宮城から岩手までの沿岸をカメラマンと車で北上。(3,000号となった)海の日号の1面写真に「東北太平洋側の平和で静かな海」の写真を撮りたくてあちこちで車を止めて撮影しました。どんな小さな漁港、入り江にも被害が及んでいました。地元の漁師さんらとの話から、自分が生まれ育った地域を愛し、これからもそこに住んでいくという強い思いに心がうたれました。
<

この写真集を通して、一番伝えたいことはなんですか?

津波が襲ってくる中、こんなふうに行動し、思った人たち(海上保安官)がいたのだ、ということを伝えたいです。

小川:
災害時の海上保安官の存在感を現地だけでなく、被災しなかった地域の住民にも広く伝えたい。そして、保安官にも自分たちの仕事を振り返り、新たな使命感を考えるきっかけになればと思う。

海上保安官へのメッセージをお願いします

大変な中で本当に頑張った。これからも自信をもってやってください。ただ、頑張ったことがまだまだ知られておらず、この本をPRに活用してほしい。

最後に、読者へのメッセージをお願いします

この本を通じて海上保安官の活躍を知っていただくと共に、津波の怖さについても知っていただければと思う。読んでいただき、ありがとうございます。

小川:
災害と立ち向かう海上保安官の姿をこの本を読み、見て、知ってほしい。また、災害にどう向かい合えばいいのかの一助にもしていただきたい。

編集後記

お二人にお話を聞いて感じたことは、新聞記者としてこの事実をきちんと伝えていきたい。また、海上保安官の活躍をもっともっと世に広めたい、知ってもらいたいという思いが伝わってきました。
「海上保安庁」と言ってもなかなかピンとこない人が多いようですが、この本を通じて多くの方に知ってもらえるきっかけとなれば、この本を出版した当社としても嬉しい限りです。
(営業グループ:小川)
本を出版したい方へ