著者名: | 大崎映晋 著 |
ISBN: | 978-4-425-94731-7 |
発行年月日: | 2013/7/17 |
サイズ/頁数: | 四六判 200頁 |
在庫状況: | 品切れ |
価格 | ¥1,980円(税込) |
石原慎太郎氏 推薦!
「彼女たちは、海洋国であるわが国が世界に誇れる素晴らしきレジェンドだ」
人魚(海女)たちの幻想的な美しさ、逞しさを、美しい海を背景に軽妙な文章で綴る。その神秘的で独特な風俗と生活を見事に描いた力作。
【序】より
海なし県といわれる群馬県に生まれて、小さい頃に聞かされた海の話は、幼い私の頭の中に、しっかりとした位置を占めるようになっていた。その頃、その海という見たこともない夢の世界は、ふとしたことで、自分の思うようにならなかったときとか、悲しみに打ちひしがれ、どっか遠いところでも行ってしまいたい、と思ったときなど、急にしっかりとした形となって心の中にどっかりと、その位置を占めていることに気づくのであった。
青年時代になって、人を恋う心が芽生える頃、多くの人が海を異性にたとえるように、私の心の中にも、ともすればあこがれの対象として位置づけたこともあった。ときには自分でもはっきりとは分からなくなって、本気で海を空想の恋人に仕立て上げてしまったこともあった。そうして、どっぷりと海キチの世界にはまり込んでいった。長じてから気がついてみると、四六時中どっかの海にはまり込んで、地上にいるときには、何となくぼんやりしていることが多くなった。そのぼんやりしているときというのは、自分の心が、どこか知らない海の底をさまよっているときなのである。こうした状態の人間を、世の人々は病膏肓に入るというのだろう。が、自分でそれを意識するようになると、逆に今度は居直って、やれ初潜りなぞと粋人ぶり、小雪がちらつくお元日の朝なぞに、唇を紫色にして海に潜った。寒さなぞ本人は一向におかまいなく、ごきげんでどこかの海底を、来る年も来る年も、性懲りなくうろつきまわっていたのである。そうこうしているうちに、ふと気がついて、鏡の中の自分を見ると、いつの間にか頭髪の中に白いものがまじり出したが、それでも一向にこの癖がなおるとも見えない。いっそ自らカッパの一族だ、みたいに開き直っていた方が、われながらふさわしいのではないかと信じ込むようになった。それで女房はおろか、二人の子どもたちも小学校に入る頃から潜りをやらせた。上の方の息子は、既に二人の子を持つ父親となり、息子の嫁はもちろん、今は二人の孫の潜水教育にうつつを抜かしている。
人間夢を追い始めると始末がつかなくなるものらしく、どこかにもっと魅力的な海があって、何か分からないまま、そこが自分の求める最後の理想郷なのではないかと、性懲りもなくあちこちの海をうろつき廻り、地球も狭くなったもんだわい、なぞとうそぶいている。
さて、そんなわけだから、世界中にカッパ友だちができて、共通の話題はといえば、いわずと知れたこと、みんな同じようなことを考えているもんである。いわく、「どこかとてつもなくすてきな海を知らないか?」というようなことばかり。誰しも、どこの国の人も、そんな同じことを考えているもんである。琉球の人たちはニライ・カナイの夢を見ているし、ブルターニュの人々は、パリに匹敵するきらびやかなイスの町が、彼らの国の首都としてあったこと、それが今もトレセパ湾の底に沈んでいると信じている。クリスマスの夜は華やかなイスが復活すると信じているのだ。心の中の竜宮であると思うのである。そしてどこの国の人も、多少の違いはあっても、どこかの海の底に、すべての人間が、誰でも幸福に暮らしてゆける竜宮が、本当にあると信じ込むようになる、否、信じたいと思い込むようになるのである。
タイ国の古い民話の中にも、マレーシアやインドネシア、またフィリピンの古い諺のようないい伝えの中にも、日本の浦島太郎の話と非常によく似た話がある。それは人間の心の中に、現世の生きる苦しみから逃れたいという、極めて自然な願望から、それをいつもいつも夢みているうちに、自然発生的に、最大公約数として出てきた心理現象なのかも、と思うわけである。それには超自然的だと考えられてきた深い海の底に、しかも感覚的には身近にある、あの海の底に心のやすらぎを求めてきたのかもしれない。
外国の海で出会った異国の友から、そんな話題について問われたときに、いつも私はこう伝えることにしているのである。
「日本の海に来てごらんなさい。そこには、青い海の底のゆらめく海藻の間から、ほんとうに人魚が泳いでくるのに逢えますよ」と。
そして私の大好きな海女の物語をしてあげることにしているのである。この日本の国と韓国の一部にしかいない海女たちは、石器時代からの長い歴史を持っている。今もなおその頃といくらも違わない暮らしぶりをしていると信じられているが、次第に時代の波に押し流され、この世から、次第に消え去っていくのだろうかと、考えることさえ胸のつぶれる思いがするのに、その悪い夢でも見ているような現象は、着実に、一歩一歩確実に実現していくようである。それで、少しでもこれらの海女さんたちの暮らしぶりについて知っている限り、見たり経験したりしたことを書き残しておきたいと思うのは、極めて自然な願いであると思っているそれを世の人からどう批判されようと、それで一つの任務を果たしたような、否、何かを書き残すことによって、心の中の何かが晴れるようにさえ思えるのである。そればかりでなく、昔はどのようにして海鳥や魚やアワビなどが、どれほどたくさんいて、それを獲って暮らしていた海女さんたちの暮らしぶりがどのようであったか。今は公害に汚されて、死んだようになっていく海を思えば、次第に姿を消してゆく海女さんたちの背中に、沈んでいく夕陽を見る思いがする。だから再び活発で、生き生きとした朝の太陽に輝く、復活の海であってほしいと願わずにはいられないのである。
とはいえわれわれ現代人にとって、日々の暮らしの根拠地を都会の中に持っている限り、あるいは仮に、この欺瞞に満ちた近代生活に反逆して、脱都会に何らかの手段と幸運に恵まれぬ限り、こんな少女の夢見るような、うつろな心の中に生きているわけにはゆかない。あるいはまた、逆説的に、そんな反逆精神の心の現れ方の、心理的な一つの表現としての生命の叫びが、遠い人類の祖先がそうであったように、われわれすべての生物の祖先が海からやってきたという、その生命の故郷に復帰しようとするのかもしれない。
さらにそのことを突きつめて考えるならば、われわれ生きとし生けるものの、肉体を構成しているすべての細胞が、その原始時代の生命の記憶として、時としてよみがえってくるかもしれない。
いずれにしても、誰の心の中にも住みついている、あの遠い記憶の中にあるような心の故郷が、ふだんは誰も意識していないけれど、都会生活に疲れ切ってしまったときなどに、海の向こうの、限りない水平線の彼方に、人の心の何かの糧となるものがあるのだろうと、そんなふうに信じたいものである。
こうしている間にも、さまざまな生産機構の廃棄物や、都会の人間の、暮らしの汚れものに押しよせられて、次第に棲み場所を追われている海女さんたちが、どんどろりんとした廃油やヘドロにへばりつかれ、澄み切った青い海を求めて、安らかな海底へ逃げ出していきたいにも、もうそんな海がどこにもなくなってしまっている。
衰々と聞こえる磯笛の響きを残して、日毎この世から姿を消していくありさまを、誰かにとなく訴えたい、そうした心寂しい気持ちにおそわれてならない。そして少しでも、彼女らの暮らしぶりを見、ともに暮らしたこともある者たちの義務としても、後の世の人たちのために、何かを書き残しておかねばなるまいと思うのである。
朝夕、青い海の見える住まいにあって、波の下に聞こえるかすかな磯笛の音色を、いつまでも心の奥に聞きながら、海を愛する心の友と、この書を通じて心を通わせることができたら、筆者としてこれ以上の喜びはないと思うわけである。
目次
千々石の悲しい海女の物語−大津波
人魚の戯れる美しき島−舳倉島
箱入り娘の海女セッちゃん−房州
清少納言も驚いた伊勢の海女
あま半島をゆく−志摩
ストレス解消の口開け−伊豆
悲しき布良の赤い星
海底を舞う羽衣−磯着
磯金のプレゼント
てべらの思い出−人魚vsウツボ
海女と海女
出稼ぎ人魚
八丈の男海士名物三人男
きらきら光る海の記憶−古仁屋
【著者略歴】
大崎映晋(おおさき えいしん)
1920年群馬県生まれ。水中写真家、水中考古学者。
1970年にジャック・マイヨールが伊豆半島でフリー・ダイビングの世界新記録を出したときにサポートした人物。海洋探検家のクストーらとも交流があり、撮影・製作した海女のドキュメンタリーがカンヌ映画祭で評価されることもあった。映画『大津波』で海中撮影を担当した際に、原作者のノーベル文学賞作家パール・バックをサポートしたことは本書でも描かれている。これまでに中国文化大学大学院教授、拓殖大学客員教授、世界水中連盟日本代表、ブルーノ・バイラッティ・プロダクション・ジェネラル・ディレクターを務めた。その他、真珠湾攻撃作戦図作成への参画、台湾政府「阿波丸」調査団代表など異彩な経歴をもつ。
【読者からの声】
●T様 65歳
過去、日本には眩しく光る海があった。厳しい生活の中にもキラキラ輝く太陽の世界があった。これだけの技術が消えるのは本当にもったいないしさみしい。良い本をありがとう。
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