かわってこちらは春の三陸沿岸の定置網。現れる魚の顔ぶれは多彩である。漁師たちが網を絞ってゆくにつれて、マイワシ、スズキ、クロマグロに混ざってサケマス類が跳ねる。この中で小さいけれど歯が鋭く、太っていて本州の太平洋側でママス、日本海側でホンマスと呼ばれる魚 ー 鱒(ます)。
山女魚は“渓流の宝石”といわれて、本種狙いの釣り師や淡水魚ファンも多い。一方、鱒は富山のマス寿司の材料だし、近年では本州の川で遡上する成魚を狙ったり、津軽海峡で未成魚を狙ってりする釣り人も増えてきた。鱒は沿岸の漁業資源として重要である。山女魚も鱒も美味しいので食通にも好まれる。
じつはこの「山女魚」と「鱒」は標準和名はサクラマスという同一の種である。サクラマスはカムチャッカ半島、沿海州、中国東北部、樺太、朝鮮半島、北海道、本州、四国、九州、さらに台湾まで広く分布しており、形態や生活史も多様で地域性も強い。日本では一生を川の中で過ごす型(河川残留型)のサクラマスを「山女魚」、海に降って大きくなり、生まれた川に遡上し産卵して一生を終える型(降海型)のサクラマスを「鱒」と呼んでいる。
サクラマスは北の地方ほど降海型(鱒)が優勢で、北海道には雌の山女魚はいない。逆に、南の地方ほど河川残留型(山女魚)が優勢で、九州や近畿地方では鱒はいない。ところが、三陸地方南部を見ると、同じ川で雄雌ともに鱒も山女魚も出現するという大きな特徴がある。本書では、この特徴的な三陸地方南部のサクラマスを材料に、サクラマスという魚の生き方の多様性を紹介し、あわせて生活史研究のおもしろさを紹介しようと思う。「どうして山女魚になり」、「どうして鱒になるか」という視点からサクラマスの生活を見直してみたい。こうすることによりサクラマスという種の持つ本質が浮かび上がってくる。
本書で述べるような研究は、水産学の中で「水産資源生物学」という分野に含まれる。この分野の研究には野外調査(フィールドワーク)が不可欠である。サクラマスの生活史の研究では採集、水温などの観測、市場での測定、標識放流などがフィールドワークにあたる。野外調査の記録は、“野帳”というノートに書き込んでゆく。当時の野帳を開いてみると、調査記録のほか、あらゆる雑情報が書き込まれている。
「サケっぽい魚」の見分けって、なかなか難しいと思いませんか?切り身で売られている塩鮭、オードブルで出てくるスモークサーモン、回転寿司で大人気のサーモン、駅弁大会で見かけるますのすしや押し寿司。興味がなければ、「全部おいしい」で済ませてしまうところです。実は一応分け方があるそうで、大まかには海で獲れるものをサーモン、川で獲れるものをトラウト(マス)と呼んでいます。しかしこの分類も厳密なものではなく、混乱や混同も生じています。
そんなサケ・マスのなかまで、渓流釣りで大人気なのがヤマメです。「渓流の女王」とも呼ばれていますね。実はこのヤマメは、「サクラマス」という魚が海へ下りずに一生を川で過ごすタイプなのです。サケと同じように川を下って海に向かうタイプは、マス(サクラマス)と呼ばれています。このサクラマスが、市場では「本マス」といわれ、特に北海道、東北、北陸では高級魚として扱われています。
ヤマメとサクラマスは、本当に同じ魚?と思うくらい見た目も違います。「山女魚」の名にふさわしく小柄で優美、美しい班の並ぶヤマメと、大きく育つサクラマス。この違いは、なぜ生じるのでしょうか。そもそも同じ種類なのに、どうして海を目指すものと川に留まるものに分かれるのでしょう?
この疑問に答えてくれるのが、今回ご紹介する『二つの顔をもつ魚 サクラマス』です。三陸周辺の河川と沿岸域をフィールドに、川に残る山女魚、海へ出て育ち、生まれた川へ戻って繁殖する鱒、それぞれの生活史を追うことで、一種類の魚の多様な生き方に迫ります。
本書を読んでいただければわかりますが、サクラマスの姿は「山女魚」と「鱒」だけではありません。サクラマスには更に亜種があり、それぞれの生息地で違う生活を送っているのです。古くから日本で生きてきた魚の様々な顔を覗いてみませんか?
この記事の著者
スタッフM:読書が好きなことはもちろん、読んだ本を要約することも趣味の一つ。趣味が講じて、コラムの担当に。
『二つの顔をもつ魚 サクラマス』はこんな方におすすめ!
- 釣り好きの方
- 魚類について学ぶ学生
- サケ・マス類の生態・養殖に興味のある方
『二つの顔をもつ魚 サクラマス』から抜粋して3つご紹介
『二つの顔をもつ魚 サクラマス』から抜粋していくつかご紹介します。同じ種の魚なのに、渓流に棲めばヤマメ、海に暮らせばマスと呼ばれるサクラマス。どんな要因がヤマメと鱒を分けるのでしょう?2つのタイプが存在する三陸地方南部に注目し、サクラマスという魚の生き方の多様性を解説します。魚の生活史を辿り、フィールドワークで得た知識を水産学に落とし込む、スリリングな本です。
成長にともない姿が変わる:山女魚と鱒の分かれ道
(1) 孵化してから十分泳げるようになるまで
三陸地方南部では、山女魚も鱒も10月~11月に川の上流から中流で産卵します。繁殖は河川の上流~中流で行われ、卵は雌の親が河床に掘った産卵床に産み付けられます。降海型の卵は、河川残留型の卵より大型です。受精卵は約20日で卵の外側から眼が見える状態になり、さらに25日で孵化します。生まれてすぐの仔魚は砂利の間で卵嚢の栄養を使って体をつくっていきます。卵嚢の栄養を使い果たすと、砂利から脱出して泳ぐようになり(浮上)、餌も自分で摂るようになります。
孵化から浮上までは約1カ月かかります。5月から6月(月齢7~8)になると、体側の小判型の模様 (パーマーク)もはっきりして山女魚らしくなります。6月から7月(月齢8~9)には体も大きくなって小型の山女魚鉤にミミズの餌でも飛びついてくるようになります。
(2)雄の場合
8月(月齢10)になると一部の個体に黒っぽい婚姻色が現われます。9月~10月(月齢11~12)には婚姻色が出た早熟な個体(ダークパー)と婚姻色が出ていない未成熟な個体(大型パー)に分かれます。翌年春(月齢17~18)には大型パーの外に、ごくわずかのスモルト(降海型=鱒の幼魚)とスモルトになりきれなかった個体(疑似スモルト)が出てきます。5月~8月に獲れる1歳以上の個体のほとんどは、パーマークが見える河川残留型(山女魚)です。
(3)雌の場合
月齢11の個体は、体型や色彩では河川残留型と降海型の区別がつきません。ちょうど満1歳になる10月(月齢12)あるいは11月以降の個体では、翌年に河川内で成熟する河川残留型と、海へ降る降海型候補が外観で見分けられるようになります、
河川残留型=山女魚は体幅が大きく、頭部が丸みを帯びており、鰭の橙色が濃く、パーマークがはっきりしています。翌年春まで大きくなりますが、体形に大きな変化はありません。 一方降海型候補=鱒候補は体幅が狭く、頭部がやや尖っていて小さく、鰭の橙色が薄く、体側は銀色を帯びて光の具合によりパーマークが見えないこともあります(銀化パー)。
鱒候補は銀化パーから著しく外観が変わります。これを銀毛化変態またはスモルト化といいます。銀毛化変態は前期・中期・後期に分かれますが、降海間近の個体(後期スモルト)は体が細く、パーマークが見えないほど銀色で、鱗ははがれやすく、背鰭先端は真っ黒になります。三陸南部では銀毛化変態は主として2月~4月(月齢16~18)に起こり、降海の盛期は3月・4月(月齢17〜18)です。従って、三陸ではスモルトはふつう満1歳です。
《山女魚と鱒の分かれ道》
降海型と河川残留型は生まれながらに分かれているわけではありません。山女魚と鱒がどうして分かれるかを整理してみましょう。
(1)雌
サクラマスが降海型=スモルトになるためには、銀毛化変態の季節までに一定以上の大きさになっていなければなりません。スモルトの最小サイズは尾叉長約10cmで、三陸南部ではほとんどの個体は月齢12~14までにこの大きさに達しています。
スモルトになるもう一つの条件は、成熟が進んでいないことです。早くから大きくなった個体は卵巣卵の一部が発達して山女魚になり、十分な大きさで成熟が進んでいない個体がスモルトになります。つまり、成長と成熟のタイミングが2型の分岐を決めるのだと思われます。
(2)雄
雄の場合も仕組みは基本的には同じですが、雌より成熟する大きさは小さく成熟年齢も1年早いので、鱒の雄は雌より少ないのだと考えられます。
山女魚になるか鱒になるかは、育つ途中で決まるのですね。体の大きさと性成熟のタイミングは、気温や水温に影響されます。寒い北海道では春にあまり成長できないため性成熟が遅くなり、サクラマスは鱒になります。逆に暖かい関東以南では生殖腺の発達も早いため、サクラマスは山女魚になるのです。
山女魚の繁殖
(1)1回繁殖と多数回繁殖
生涯に1繁殖期しか産卵放精しないものを1回繁殖、何回かの繁殖期に渡って産卵放精するものを多数回繁殖といいます。魚では1繁殖期に何回かに分けて卵を産むのが普通です。太平洋のサケ属(降海型)は、産卵後すべて死んでしまいます。これに対して大西洋のタイセイヨウサケ属では、一部の個体が死なずにもう一度海に降り、体力を回復して次の産卵期に溯上して卵を産みます。では、一つの河川に降海型と河川残留型の雌がいる三陸南部のサクラマスではどうなっているのでしょう。
(2)産卵したことのない山女魚の卵巣
まだ産卵したことのない山女魚の卵巣発達を見てみましょう。
A:7月の1歳魚、B:8月の1歳魚の2個体について観察してみました。
A:卵巣組織は、大型の卵巣卵が広い部分を占めていました。また、これより若い発達段階の卵巣卵も見られます。卵径組成には小型卵と大型卵の二つの峰があり、数は小型卵の方が多くなっています。
B:卵巣組織に卓越する卵巣卵は大型で、Aより1段階進んだ第2次卵黄球期と呼ばれる段階にありました。卵径組成は大型群と小型群の二つの山にはっきりと分かれており、その割合は3:7でした。なお大型卵は280粒で、溯上したサクラマスのおよそ10分の1です。
(3)産卵を経験した山女魚の卵巣
産卵を経験した銹山女魚の卵巣を同様に観察します。A:産卵直後(10月)の2歳魚、B:12月の2歳魚、C:3月の3歳魚、D:6月の3歳魚の4個体です。
卵巣の外観はAからCまでは海綿状で、卵巣内には生み出されずに吸収過程にある卵巣卵が多くなっています。吸収過程の卵巣卵の直径はAでは1,900μmが多くなっていますが、それらの数も次第に減少しDでは見られなくなるので、5月から6月までに吸収されると思われます。
卵巣組織を観察すると、卵巣卵はまばらで、卵巣組織は卵が生み出された後に残る組織がAでは大部分を占めていますが、B、Cと次第に小さくなりDではほとんど消失しています。
産卵直後のAでも卵巣の中には次の繁殖期に生み出される卵が生きています。その発達段階は、同時期の未産魚の発達段階とほぼ同じかやや遅いくらいです。
これら正常に発達している卵巣卵の卵径組成の変化をみると、単峰型の山が次第に崩れて双峰型になっていくことがわかります。小型群は卵径が変化せず、大型群は径を増大させていきます。この発達過程は未産魚に似ていますが、未産魚に比べて大型群の比率が高く、Dでは2群の比率は大型群7に対し小型群3であり、発達が進まずに残っている若い卵巣卵はかなり数が減っていることがわかります。
(4)山女魚は多数回繁殖
降海型と河川残留型の卵巣発達は異なり、降海型は卵全部が大きくなっていくのに対し、河川残留型はたくさんの卵の一部が大きくなり残りは小さいままでいるという発達様式です。産卵を終えた山女魚の一部は生き残り、産卵直後のスカスカの卵巣にも次の年に生み出される卵となる卵巣卵が残っており、春から夏にかけて卵巣は排卵痕や残った卵を吸収しながら卵巣卵が正常に発達していくことがわかります。つまり、山女魚=河川残留型は多数回繁殖なのです。
川に留まる山女魚は、複数回の繁殖が可能なことがわかりました。では、何回繁殖が可能なのでしょう?実は鱗を見ると産卵回数を推定することができます。それによると、三陸の山女魚の寿命と繁殖回数は、雄で寿命1年~4年で繁殖回数は最大2回、雌は寿命2~5年で繁殖回数は最大3回程度と推定されます。
三陸沿岸での越冬
鱒の仔たちは北へ向かうため、7月末には日本沿岸から姿を消します。ほぼすべての日本起源サクラマスはオホーツク海で夏を越すと考えられています。
《三陸沿岸は共通の越冬場》
(1)日本沿岸に戻る
サクラマスがふたたび日本沿岸に出現するのは10月以降で、まず北海道知床半島周辺に現れます。この頃知床半島周辺で漁獲されるサクラマスには標識として鰭を切って放流した個体が多く含まれています。切られた鰭の位置(県によって違う)を見ると、日本海側に向かうものと太平洋側に南下するものが含まれていることがわかります。
その後サクラマスは日本海の中部以北および北海道と本州の太平洋沿岸で初夏まで漁獲されます。
(2)三陸沿岸域での分布と移動
①漁業の情報:本州の太平洋側の漁獲量は年100トン程度で、主に定置網、底曳網、刺網によって漁獲されます。太平洋側の海域では、北海道東部沿岸で11月から、本州沿岸で12月から漁獲されます。1月以降には北海道南部から本州北部に至る沿岸域で漁獲が増加し、2月から5月に最大になります。
本州太平洋側の漁獲の季節的な推移からみて、1月と2月に下北半島付近に来遊した鱒は一部がさらに南下し、4月と5月には岩手県中部から宮城県まで南下します。母川回帰または北上移動は、5月と6月に急速に行われるとみられます。
②海況の情報:日本海沖合域で鱒が漁獲されるのは、表面水温が5〜15℃の範囲で、8〜11℃が主要な漁場です。日本の太平洋側では、3~6月には北海道西部から本州東岸にかけての陸地に近い沿岸域の狭い範囲が該当します。
③標識放流から:宮城県志津川湾で行った標識放流では、大部分は放流点近くから北側、襟裳岬より西の太平洋側までで再捕されています。鱒の多くは岸寄りを北上していくものと思われます。成魚の移動速度は幼魚より速く、特に移動期に入った個体は20km/日以上で北上移動していきます。
④鱒の動き:志津川湾の標識放流結果から、三陸南部沿岸で冬を越した成魚は、4月下旬以降に三陸南部の沿岸域から北海道襟裳岬方面へ岸沿いに北上し、三陸から北海道南西部の生まれた川に帰っていくと思われます。
《さまざまな体形》
サクラマスはほかのサケ属魚類に比べて、体形の変異が大きくなっています。市場に揚がる鱒の尾叉長は30cmから70cmまであり、太り具合もさまざまです。
体型の違いは雄雌の違いでしょうか。体の部位別に測定してみると、雌雄差が大きいのは吻長、上顎長、頭長でした。つまり、頭部の形である程度雌雄の判別が可能です。体高など頭部以外の変異は、性別とは関係がないようです。
《雄と雌の割合》
三陸沿岸域の幼魚では、ほぼ20尾に1尾が雄でした。本州より北では雄の割合が高くなるので、この海域で獲れる鱒は、雄と雌の比率が幼魚と等しければ地元産、逆に雄の割合が高ければもっと北で生まれた個体を含んでいることになります。
河川に遡上する鱒は分布の南限地方ではほとんど雌だけで、北限地方ではその雌雄比が1:1に近づくとされています。北海道全体の平均では遡上魚の約66%、沿岸の幼魚の約81%が雌であるといわれています。三陸沿岸でも宮城県より北の岩手県沿岸では幼魚の85%が雌です。三陸南部沿岸域の成魚の雄雌比は、同じ水域の幼魚より北海道の幼魚の割合に近く、地元生まれでない個体が混じっていることを示しています。
このあと鱒たちは川を遡上して繁殖行動に移るのですが、雄と雌の割合から考えると、南限に近づくほど同じ川を遡上してきた雄と繁殖するのはなかなか難しそうに思えますね。実は、三陸地方においては降海型同士の交配は少なく、降海型の雌と河川残留型の雄の組み合わせが多いと考えられています。
『二つの顔をもつ魚 サクラマス』内容紹介まとめ
暮らす場所で呼び名や形態の変わるサクラマス。山女魚と鱒の名で呼び分けられるサクラマスの生き方の違いは、どのようにして現れるのか。川に残る山女魚と海を目指す鱒の一生をそれぞれ追い、緻密なフィールドワークによってサクラマスの多様な生態を明らかにします。
『二つの顔をもつ魚 サクラマス』を購入する
公式ECサイトで購入する
Amazonで購入する
釣って知り、知って釣る おすすめ3選
・
『クロダイの生物学とチヌの釣魚学』
その賢さで釣り人を翻弄し、スリリングな釣りを楽しませてくれるチヌ。その賢さと力強さはどこから来ているのか?クロダイという魚はどんな生態をもち、どんな一生を送るのか?クロダイ釣りを愛する研究者が、釣りから得た気づきを生物学的に分析します。
・
『イカ先生のアオリイカ学(改訂増補版)』
アオリイカが好きすぎて様々に極めてしまった著者が、新情報を満載した改訂増補版を放ちます。アオリイカの生態、分布、釣り方や釣り具、食べ方まで、釣り人目線で一挙解説。これまでの常識を覆すデータが満載です。釣り仲間の協力により、これまで知られなかった分布が明らかになるなど、アオリイカファン必読です。
・
『水族館発! みんなが知りたい釣り魚の生態』
「釣りマスター×水族館員」って、釣り師匠としてかなり最強だと思いませんか?水族館の魚は野生を失っているかというと、まったくそんなことはありません。仕事で趣味で日々魚と付き合っている水族館スタッフたちが、「これは釣りに活かせるぞ」と思った魚の秘密を一挙公開。ブラックバスからピラニアまで、明日の釣りに役立ちます。