著者名: | 森下丈二 著 |
ISBN: | 978-4-425-98501-2 |
発行年月日: | 2019/7/28 |
サイズ/頁数: | A5判 260頁 |
在庫状況: | 品切れ |
価格 | ¥4,180円(税込) |
【はしがき】
2018年12月26日、日本政府は菅義偉官房長官の談話により国際捕鯨委員会(IWC : International Whaling Commission)からの脱退(正確にはIWCを設立した国際捕鯨取締条約からの脱退)と商業捕鯨の再開を発表した。この決定は国際捕鯨取締条約の寄託国である米国政府に直ちに通告され、同条約第11条の規定に基づき、翌2019年6月30日に脱退が実現した。
このIWC からの脱退と商業捕鯨再開の決定について、日本国内からは歓迎と期待の声が聞かれる一方で、特に脱退については「なぜ今脱退か」、「国際協調に影を落とす」、「短慮に過ぎる」、「冷静な判断を」などといった批判や懸念も表明された。脱退の決定が、IWC において自らの主張が通らない日本がついに堪忍袋の緒が切れて、感情的に国際社会に背を向けるものであるというイメージに基づく批判や懸念ではないかと思われるが、実はIWC においては1990年代から数度にわたって捕鯨支持国(あるいは鯨類の持続的利用支持国)と反捕鯨国の間の妥協点を探る「和平交渉」が試みられ、様々な議論や妥協案が俎上にあがり、これらがすべて失敗してきたという歴史がある。なぜこれらの国際交渉がことごとく決裂したのか? それは感情論のせいけで片付けられるものなのか?
2018年9月にブラジルのフロリアノポリスで開催されたIWC 第67回総会での日本からの提案の否決が、脱退の決定の直接の原因であるかのような報道もなされたが、実際には、過去の度重なる「和平交渉」の失敗とその原因の分析を受けて、2014年のIWC第65回総会の前に大きな交渉方針の転換を行い、約5年の月日をかけて第67回総会での提案につながるステップを積み上げたという背景がある。そして、さらに2018年の第67回総会での日本提案の否決は、非常に残念ではあったが、同時に十分予見されていた事態であったのである。この交渉方針の転換とは何か? 5年をかけて積み上げたステップとはいったいどのような交渉であったのか? 本書の目的の一つは約30年に渡る捕鯨問題に関する歴史とその争点を通史として記述することにある。とかく一面的に論じられ、誤解も多い捕鯨をめぐる交渉について、このような形で記録と考察をまとめることは、この交渉に関わってきたものの義務と責任であると感じている。
本書にはもう一つの大きな目的がある。国際捕鯨問題は時に他の外交交渉とは独立した特殊な問題として理解されることも多い。しかし、捕鯨問題は他の国際的な問題における重要な要素を凝縮したような点が多々ある。本書では、国際捕鯨問題をめぐる外交交渉の展開の中からこれらの要素を抽出し、分析することで特に紛争を抱える他の外交交渉に参考となり得る論点を提供することを試みる。例えば、捕鯨問題では鯨類に関する科学が重要な役割を果たすとともに、論争の種ともなっている。この構図は気候変動をはじめ、多くの科学的要素をめぐる議論や外交交渉に通じる。国際法の解釈とその運用をめぐる意見の相違と対立も捕鯨問題の構成要因である。国際捕鯨取締条約の目的や商業捕鯨モラトリアムを導入した条約附表第10項e の規定の解釈は常にIWC での議論を生んできたし、2014年に判決が下された捕鯨をめぐる国際司法裁判所での論争の要素であった。ちなみに、国際司法裁判所の判決は日本の全面敗訴と報道されたが、国際法の解釈についてはむしろ日本の主張に沿った判決となっている。これについても本書で詳しく解説する。
国際交渉や国際紛争におけるプレスや世論、広報活動の重要性も捕鯨問題からの教訓の一つであろう。国内政治だけではなく、国際問題でさえサウンドバイト(ニュースなどの放送用に抜粋された、政治家や評論家などの刺激的な言動や映像、あるいは注意を引き付ける簡潔なスローガンなど)やそれから生じるパーセプション(認識・認知・知覚)で動く。ポピュリズム(大衆迎合・大衆扇動)が影響力を拡大し、フェイクニュースが飛び交い、ソーシャルメディアが外交問題の帰趨を左右する事態は捕鯨問題では経験済み、かつ対応が難しい問題である。この観点についても捕鯨問題は他の外交交渉への何らかの教訓を提供しうる。
そして、国際機関からの脱退という決断に至った捕鯨問題の展開と経験、そしてその背景は全ての国際交渉への対応において指針と教訓を提供する。国際機関からの脱退という決断は重い決断であり、南極海での鯨類科学調査の停止という犠牲も払った。その理由と論理は明確に説明され、理解されなければならない。他の国際交渉において脱退を避けるという視点からも、脱退を国際交渉の一つのオプションとして捉えるという視点からも、本書は一定の貢献ができると期待したい。
本書の第1章では、まず捕鯨をめぐる国際的対立について、その事の起こり、対立の争点、捕鯨の管理システムの変遷など、国際捕鯨問題に関する基礎的な情報をまとめた。第2章は、30年を超えるIWC における「和平交渉」の議論を資料も含めて記述するとともに、なぜすべての「和平交渉」が失敗に終わってきたかを分析した。第3 章は2014年に判決が出た南極海の鯨類捕獲調査をめぐる国際司法裁判所での訴訟の経緯と判決の解説を試みた。第4章では、日本のIWCからの脱退につながった、2018年9月のフロリアノポリス(ブラジル)で開催された第67回総会での日本提案に至った経緯、総会での議論について述べた。第5章はIWC からの脱退が意味するものについて、その理由、問題点の整理、国際法上の位置付け、商業捕鯨再開の形と今後などについて考えた。最終の第6章では、本書の目的である捕鯨問題と他の国際交渉とのつながり、捕鯨問題からの教訓などを分析して、様々な国際的な紛争へのアプローチへの参考となることを目指した。
捕鯨論争については不毛で感情的な議論が長年続いてきたというイメージが強いと思われる。これは間違ってはいないが、同時に30年を超える論争の歴史的展開の中で、何が争点となり、それらがどう議論され、また争点自身がどう変わってきたかということについては系統的にとらえられていない。また、その議論の内容と展開は他の国際問題や漁業資源管理問題からは、孤立した異質の問題であるという認識もあるかと思えるが、本書で述べるように、捕鯨論争は実に様々な要素を含み、その帰趨は広範な国際交渉に影響を及ぼす潜在性が有る。また、日本のIWCからの脱退はゴール、もしくは捕鯨問題の解決ととらえられている向きもあるが、脱退はこれから鯨類資源の国際管理をいかに進めていくかのスタートである。捕鯨問題はフェーズが変化するもののなくなりはしない。
筆者はIWC での議論を中心に1990年代から」捕鯨問題にかかわって来ており、公表されていない情報にもアクセスがあるが、本書は公表された情報と資料に基づいて執筆した。本書の内容は筆者個人の見解であり、日本政府の見解を代表するものではない。また本書中の誤解や誤りはすべて筆者の責任に帰する。
なお、本書は次の2 編をベースとし、大幅に加筆修正を加えた。
1)森下丈二、「海洋生物資源の保存管理における科学と国際政治の役割に関する研究:捕鯨問題と公海生物資源管理問題を巡る議論の矛盾と現実」、京都大学論農博2828号.
2)森下丈二、「岸本充弘、商業捕鯨再開へ向けて ―国際捕鯨委員会(IWC)への我が国の戦略と地方自治体の役割について―」、下関市立大学 地域共創センター年報
2018 vol.11、49p 〜99p.
2019年5月
森下丈二
【目次】
第1章 捕鯨をめぐる国際対立―変容してきた捕鯨論争
1-1 捕鯨論争の始まりと変容
(1)環境保護のシンボルとしての捕鯨問題
(2)1972年国連人間環境会議
(3)1982年IWC 商業捕鯨モラトリアムの採択
(4)論点の変容―科学、商業性、そしてカリスマ動物
1-2 なぜ捕鯨に反対するのか
(1)クジラは絶滅に瀕している(科学的問題)
(2)クジラは特別な動物(感情・価値観)
(3)商業捕鯨は禁止されている(法律)
(4)捕鯨は倫理・道徳に反する(倫理)
(5)世界の世論は反捕鯨(政治)
(6)捕鯨は必要ない(経済)
(7)捕鯨は日本の文化ではない(文化論)
1-3 捕鯨の管理をめぐる科学―鯨論争の中心が科学であったころ
(1)商業捕鯨モラトリアムの本当の意味
(2)RMP(改定管理方式)の開発―科学議論の大きな進展
1-4 RMS(改定管理制度)の導き―科学議論から監視取締の問題へ
(1)移動したゴールポスト
(2)反捕鯨国の強硬な主張
1-5 「商業性」の有無をめぐる論争へ
(1)独り歩きした商業捕鯨モラトリアムの解釈
(2)「商業性」を否定する根拠
1-6 クジラの無条件保護の主張―カリスマ生物のコンセプト
(1)カリスマ動物とは?
(2)かみ合わない議論
1-7 IWC 科学委員会の変質
(1)科学委員会の関心の変容
(2)科学委員会への参加者は圧倒的に反捕鯨国から
第2章 繰り返し失敗してきたIWC での「和平交渉」
2-1 カーニー議長のアイルランド提案(1997年)
(1) 4 項目のパッケージ提案
(2)アイルランド提案の終焉
2-2 RMS 導入に関する交渉からフィッシャー議長のRMS パッケージ提案(2004年)へ
(1)1992年IWC44回グラスゴー会合で反捕鯨国が設けた新たな障壁
(2)1993年IWC45回京都会合:科学委員会議長の抗議の辞任
(3)1994年IWC46回プエルト・ヴァヤルタ会合:RMS 提案
(4)2004年IWC56回ソレント会合:フィッシャー議長のRMS パッケージ提案
(5)RMS パッケージ提案の終焉
(6)自民党国際捕鯨委員会対応検討プロジェクトチーム
2-3 IWC の将来プロジェクト(ホガース議長)
(1)持続的利用支持国の増加と2006年セントキッツ・ネービス宣言の採択
(2)2007年IWC 正常化会合とIWC 第59回アンカレッジ会合でのダブルスタンダード
(3)IWC の将来プロセスの始動
(4)小作業グループ(SWG)による提案
(5)第2 IWC 設立の動き:「セーフティネット」プロジェクト
2-4 2009年IWC 第61回マデイラ会合から2010年の議長副議長提案へ(マキエラ議長)
(1)2009年IWC 第61回マデイラ会合とサポート・グループの設立
(2)2010年の議長副議長提案
(3)最後の「和平交渉」の崩壊
2-5 なぜすべての和平交渉が失敗に終わったか
(1)妥協案は構築できたか
(2)常識的合理的な妥協提案が受け入れられるとは限らない
2-6 捕鯨問題の「本質的議論の模索」
(1)本質的問題とは何か
(2)2014年から始まった新たな交渉アプローチ(第65回IWC 総会)
(3)2016年 本質的議論の開始(第66回IWC 総会)
(4)2018年 IWC の将来ビジョンをめぐる議論(第67回IWC 総会)
第3章 国際司法裁判所 International Court of Justice:ICJ
3-1 背景と経緯
3-2 ICJ 判決主文
3-3 ICJ 判決に至ったICJ 側の論理と結論
(1)非致死的手法の実施に関する検討が不十分(パラグラフ137)
(2)目標サンプル数の設定に関する検討が不透明・不明確であり不合理(パラグラフ198、212)
(3)終期のない時間的枠組みに対する疑念(パラグラフ226)
(4)科学的成果が不十分(パラグラフ219)
(5)日本の答弁書(2012年3 月)
(6)他の研究機関との連携が不十分(パラグラフ222)
3-4 判決の問題点
3-5 ICJ 判決が支持した日本の見解
3-6 ICJ 判決を受けての日本政府の対応と新南極海鯨類科学調査計画
3-7 第65回IWC 総会での議論
3-8 第66回IWC 総会での議論
3-9 新南極海鯨類捕獲調査計画(NEWREP-A)
3-10 ICJ 判決の意味するところ
第4章 脱退から商業捕鯨再開への道のり
4-1 なぜ商業捕鯨再開をめざすのか
4-2 IWC からの脱退と国際法
4-3 IWC での議論の限界
4-4 捕鯨問題のもう一つの柱
4-5 商業捕鯨はバイアブル(経済的に成り立つ)か?
4-6 南極を諦めて近海で再開
4-7 RMP で計算される捕獲量
4-8 脱退後
4-9 脱退しか道はなかったのか
4-10 日本が抜けた後のIWC 持続的利用支持国との関係
(1)IWC は崩壊するか、完全なクジラ保護機関となるか
(2)なぜ、オブザーバーとしてIWC に参加するのか?
第5章 捕鯨問題から国際紛争交渉への教訓
5-1 国際紛争交渉への教訓
5-2 科学の役割
(1)国際交渉において科学が果たす役割
(2)サイエンス・コミュニケーターの必要性
(3)クジラの資源評価の例
5-3 プレスと広報活動
(1)プレスの役割
(2)日本の広報活動とその限界
(3)情報を受け取る側の問題
(4)なぜ、ここまでになったのか
(5)消されたマッコウクジラのウェブサイト
(6)映画「ザ・コーヴ」で行われた情報操作
5-4 カリスマ生物コンセプト
(1)カリスマ生物とは何か?
(2)カリスマ生物を支持する論点
(3)カリスマ生物に反対する論点
(4)カリスマ生物コンセプトに関する認識の現状
(5)強まる野生生物製品取引の規制
5-5 科学と国際政治とパーセプション
(1)国際政治とパーセプション
(2)パーセプションの双方向性―その結果としてのパーセプション・ギャップ
(3)なぜ、パーセプションが生まれ持続するのか
(4)従来の交渉パターン―「理解と協力」の要請あるいは「孤立しても反対」
(5)公海流し網漁業、MPA 問題と捕鯨問題の比較
(6)新たな国際交渉のパラダイム
5-6 グローバリズムとローカリズムの対立
5-7 日本が将来目指すべきもの
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