北海道の鉄道開拓者ー鉄道技師・大村卓一の功績ー


978-4-425-96311-9
著者名:高津俊司
ISBN:978-4-425-96311-9
発行年月日:2021/9/18
サイズ/頁数:A5判 264頁
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価格¥3,520円(税込)
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北海道の開拓・発展の大きな原動力となった「鉄道」。その鉄道網の拡充に尽力した鉄道技術者の一人である大村卓一の功績と共に北海道鉄道の発展を振り返る。


【はじめに】

2018年9月、北海道開拓使が置かれてから150 年を迎える記念行事が催され、2020年は北海道に鉄道が開業して140年目の節目の年であった。多くの先人たちが厳しい自然と闘い、苦労を重ねて北海道を開拓して産業、経済、文化を発展させてきた。その開拓の大きな原動力となったのが鉄道である。1880年に手宮・札幌間に開業した幌内鉄道は、外国人技術者クロフォードや海外留学組の松本荘一郎によって建設された。その後、平井晴二郎、田邉朔郎、廣井勇などの気鋭の技術者の尽力により北海道内の鉄道網の拡充が進められた。この本で取り上げる大村卓一は、外国人技術者が帰国後に日本人による鉄道網の拡充や改良を進めた明治、大正、戦前の昭和の時代を、北海道の鉄道から出発し、朝鮮半島や大陸を駆け抜けた鉄道技術者である。
筆者が大村卓一の名前を初めて目にしたのは、故郷である北海道室蘭の鉄道施設の歴史を調べている時であった。室蘭港において鉄道から船への石炭積出用の水陸連絡埠頭設備の計画、設計、施工について、後に満鉄総裁になる大村卓一が設計および指導したと文献にあった。
年譜によれば、大村卓一は1872年に福井県の下級武士の子として生まれ、1896年、札幌農学校工学科卒。クリスチャン。同年、北海道炭鉱鉄道株式会社に就職。1906年、帝国鉄道作業局。1925年朝鮮総督府鉄道局長。1932年関東軍交通監督部長。1935 年南満洲鉄道株式会社副総裁。1939年南満洲鉄道株式会社総裁に就任し、1943年7月14日に退任。退任後しばらく著述に専念するが、1945年1月、満洲国大陸科学院長。その後、満洲の通化で中国共産党軍に南満洲鉄道総裁であったとして抑留され、翌年海龍県で逝去した。
大村関係の資料や文献を少しずつ収集し、その足跡をたどった。そうは言いながら残された資料も少なく、断片をつなぎ合わせても、その業績や人生の全体像を知ることはなかなか難しい。当時の時代背景や鉄道をとりまく動きや、多くの関係する人々を通じて、ぼんやりではあるが、大村の業績や技術者としての生き方が少しずつ把握できた。これらを通じて、先人の鉄道に対する熱い思いと、一方で時の政治や時代の流れに翻弄され、技術者としての苦悩と葛藤する姿を見た。
明治以降の時代は、日本が西欧文化や技術を導入して近代国家として政治的にも経済的にも飛躍的に発展する時期であった。中でも北海道の開拓は、北辺の防衛的な守り、資源や食料の確保、旧武士を含めた新しい雇用の確保などの大きな政策課題ではあった。北海道の鉄道整備は未開の地への交通ネットワークを確保し、特に石炭を効率的に輸送することを大きな使命としていた。大村は、創成期の北海道鉄道における若い鉄道技術者として、路線の改良や新線建設計画など多くの貢献をした。その中でも大村が担当した、室蘭と小樽港の石炭船積海上高架桟橋の計画、設計、施行は当時としては最先端の設備であり、効率的な石炭輸送に寄与した。
北海道の鉄道整備は、北の大地の開拓を飛躍的に進め、社会経済の発展に大きく寄与した。大村はその後、朝鮮半島や満洲に活躍の場を移し、最後は満鉄総裁に抜擢された。大村とっては、鉄道技術者として北海道の経験やノウハウの延長線上に朝鮮半島の、そして満洲の鉄道による地域の開拓や経済発展の夢があったのではないか。
しかし、終戦により同氏が尽力した朝鮮半島や満洲の鉄道は日本の管理下から除かれ、それぞれの経営は異なる道を歩むことになる。
第一部では草創期の北海道の鉄道建設のあゆみと大村の業績をたどる。特に大村が入社した北海道炭礦鉄道株式会社(北炭)は、民間会社として鉄道ばかりでなく炭鉱などの多角経営や一貫複合輸送で先駆的な取り組みをした。同社はその後、全国の鉄道とともに国有化される。北炭における、当時の最先端の技術を適用した大村が設計した室蘭と小樽の石炭船積海上高架桟橋について述べる。
第二部では鉄道院での東京勤務時代の大陸出張、朝鮮総督府時代、中国大陸の満洲における足跡をたどる。北海道での鉄道整備や改良の経験や知識を活かして、大陸にて大村が飛翔する時代である。
第三部ではこれらの生涯のバックボーンとなった大村の生い立ちについて、福井での幼年時代、札幌農学校時代、そして満鉄総裁退任後の満洲での敗戦とその翌年の死に至るまでを述べる。
終章では大村の業績のまとめと評価などについて述べる。
これらの大村の業績やあゆみを通じて、北海道や朝鮮半島、満洲における鉄道整備の歴史についても理解が深まるように努めた。

2021年7月
高津 俊司

【目次】

第一部 北海道開拓鉄道
第一章 草創から北海道炭礦鉄道会社
 1.1 明治維新と北海道開拓政策
 1.2 北海道で最初の鉄道・茅沼鉄道から幌内鉄道
 1.3 北有社への貸付
 1.4 北海道炭礦鉄道会社の設立
 1.5 室蘭方面を含めた鉄道ネットワークの拡充
 1.6 北炭の社内改革と井上角五郎
 1.7 大村の北海道炭礦鉄道会社への入社
 1.8 結婚
 1.9 榎本武揚が宿舎に来て議論
 1.10 北炭の改良工事
 1.11 防雪林とラッセル排雪車
 1.12 欧州視察

第二章 鉄道国有化後  2.1 北垣國道長官の北海道開拓意見書
 2.2 田邉朔郎の招聘と官設線建設
 2.3 函館・小樽間の鉄道(函樽鉄道、後の北海道鉄道)
 2.4 鉄道国有化法と北海道の鉄道の組織再編
 2.5 大村の国有化後の北海道勤務(1906-1917)
 2.6 後藤新平との出会い
 2.7 余市川鉄橋の応急復旧
 2.8 小樽埋立水射式土工
 2.9 室蘭本線長万部・東室蘭間の建設計画
 2.10 北海道鉄道敷設千マイル
 2.11 妻の死とキリスト教への入信

第三章 石炭船積海上高架桟橋(室蘭・小樽)  3.1 石炭船積施設の計画
 3.2 内務省との対立と交渉
 3.3 開業当初の石炭荷役作業
 3.4 木造による海上高架桟橋
 3.5 高架桟橋の経済効果
 3.6 石炭輸送の鉄道ネットワーク
 3.7 岩見沢駅、追分駅のヤード機能の整備
 3.8 その後の機械荷役時代(室蘭)
 3.9 室蘭に誕生した日本製鋼所の技術顧問に就任
 3.10 北炭と南満洲鉄道
 3.11 石炭産業の北海道開発および日本経済への寄与
 3.12 開拓鉄道と北海道開発の進展

第二部 大陸にて
第四章 鉄道院での東京勤務と大陸出張
 4.1 鉄道院巡察官として東京へ
 4.2 シベリア出張(シベリア出兵前線視察)
 4.3 東支鉄道管理委員会
 4.4 支那鉄道の技術統一委員会顧問
 4.5 黄河橋りょう設計審査委員会に参加
 4.6 ワシントン会議の山東懸案細目協定委員として
 4.7 山東鉄道の引渡と経営支援
 4.8 大陸出張時代の業績

第五章 朝鮮総督府  5.1 朝鮮半島と日本
 5.2 朝鮮半島の鉄道
 5.3 満鉄への経営委託とその解除
 5.4 朝鮮総督府鉄道局長に就任
 5.5 朝鮮鉄道12 年計画
 5.6 徹底した事前調査と綿密な計画策定
 5.7 鉄道網の拡充と国境連絡…
 5.8 京城大洪水
 5.9 妻雪子の死
 5.10 田邉朔郎子息の田邉多聞
 5.11 若い鉄道人へのメッセージ
 5.12 反日感情と民族融和
 5.13 朝鮮総督府時代の業績

第六章 関東軍および満鉄時代  6.1 満鉄の誕生
 6.2 満洲国の建国
 6.3 関東軍交通監督部長に就任
 6.4 東支鉄道の譲渡
 6.5 満鉄改組問題
 6.6 松岡総裁の元で満鉄副総裁に就任
 6.7 満鉄総裁に就任
 6.8 鉄道経営一万km
 6.9 人材育成と石炭液化プロジェクト
 6.10 日本海ルートの成立
 6.11 満鉄総裁を辞任
 6.12 華北交通と華中交通
 6.13 大東亜縦貫鉄道
 6.14 大村の健康法
 6.15 派閥きらい、宴会きらい
 6.16 鉄道五訓と一燈園
 6.17 満洲の経済的発展と鉄道技術史上の評価

第三部 生い立ち
第七章 幼年時代
 7.1 福井に生まれる
 7.2 幕末の福井藩
 7.3 横井小楠と弟子・安場保和
 7.4 藩校明道館
 7.5 堅実で勤勉な福井県人気質
 7.6 父と母の回想
 7.7 札幌農学校を志願
 7.8 北海道への旅の途中で

第八章 札幌農学校  8.1 札幌農学校の設立
 8.2 クラーク氏とその弟子たち
 8.3 札幌農学校の存続危機と工学科の設置
 8.4 札幌農学校予科への入学
 8.5 予科卒業
 8.6 札幌農学校工学科への入学
 8.7 恩師廣井勇
 8.8 第一次廣井山脈
 8.9 廣井の教育方針
 8.10 釧路港鉄道計画
 8.11 新渡戸稲造
 8.12 苦学生活
 8.13 父の死
 8.14 旧友・高岡熊雄
 8.15 社会福祉の先駆者・留岡幸助
 8.16 工学科卒業
 8.17 受け継がれるフロンティア精神

第九章 敗戦および終焉の時  9.1 中国国内旅行(北中支巡訪片々)
 9.2 「大陸に在りて」を執筆・出版
 9.3 大陸科学院総裁に就任
 9.4 ソ連参戦
 9.5 通化に移動、そして終戦
 9.6 通化滞留日記
 9.7 寺田山助宅での生活
 9.8 ソ連軍の進駐
 9.9 寺田山助が宮内府救出へ動く
 9.10 八路軍の進駐
 9.11 拘留
 9.12 通化事件
 9.13 安田技師との再会
 9.14 最後の時
 9.15 現地での葬儀とその後
 9.16 計らない人生
 9.17 大村の掲げる「交通道」について
 9.18 キリスト教徒として
 9.19 最後の奉仕

第十章(終章)  10.1 大村卓一の功績
 10.2 海外の開拓鉄道
 10.3 日本型開拓鉄道ビジネスモデル
 10.4 戦後の経済復興、国土再建に活躍した大陸からの引揚技術者
 10.5 日本の海外インフラ輸出のために
 10.6 北海道新時代の交通体系をめざして



この書籍の解説

2022年は、日本の鉄道開業150年です。華やかなイベントが各所で行われることでしょう。しかし、新幹線の延伸等の喜ばしいニュースの裏では、並行在来線の存続問題や過疎路線の廃止問題など、少子高齢化や過疎の進行による鉄道への影響も顕在化してきています。最近では、北海道新幹線の延伸に伴ってJRから切り離される函館線について、貨物線としての様々な議論や競技が進められています。
青函トンネルを鉄道が走り出したとき、新幹線が開通したとき、北海道の鉄道はその都度大きな波に見舞われてきました。私(担当M)は寝台列車が好きなので、新幹線開通で失われたり姿を変えたりした札幌発着の寝台列車たちを惜しんだものです。
現在も大きな局面に向き合っている北海道の鉄道は、明治13年の11月に走り出しました。鉄道は、北海道の基幹産業であった石炭事業のために敷設されたものですが、この鉄道開通は、開拓において大きな一歩となりました。石炭以外にも木材や農水産物等や軍事物資を運ぶため、鉄道網が北海道に広がっていったのです。
ここで大きな貢献をした鉄道技師の中に、大村卓一という人がいました。福井に生まれたこの人は札幌農学校へ進み、工科で学び鉄道の道へ進みました。創世記の北海道鉄道において、路線の改良や新線建設計画などに尽力し、効率的な石炭輸送に寄与しました。その後大陸に渡り、南満州鉄道の総裁に就任しています。
今回ご紹介する『北海道の鉄道開拓者』は、この大村卓一の人生を辿り、同時に北海道鉄道発展史を浮き彫りにしていきます。ひとりの技師を中心に歴史を眺めることで、変わりゆく北海道の鉄道史を新たな目で見ることができるでしょう。

この記事の著者

スタッフM:読書が好きなことはもちろん、読んだ本を要約することも趣味の一つ。趣味が講じて、コラムの担当に。

『北海道の鉄道開拓者』はこんな方におすすめ!

  • 鉄道ファン
  • 北海道の開拓史に興味のある方
  • 日本のインフラ史に興味のある方

『北海道の鉄道開拓者』から抜粋して3つご紹介

『北海道の鉄道開拓者』から抜粋していくつかご紹介します。明治~昭和初期、北海道の鉄道から始め、朝鮮半島や中国大陸までの鉄道発展史に深く関わった鉄道技師・大村卓一。膨大な資料をもとに、北海道の交通・輸送インフラに大きな役割を果たした偉人の人生を振り返り、北海道の鉄道発展史を鮮やかに描き出します。

北海道で最初の鉄道・茅沼鉄道から幌内鉄道

幕末にはアメリカやフランスから幕鉄道敷設計画が持ち込まれていました。しかし明治政府は植民地化につながりかねない外国資の導入を避け、官営で鉄道の整備を進めました。北海道の最初の鉄道である幌内鉄道も国有国営の鉄道です。

最初に本格的に敷設された官営幌内鉄道は、石炭の輸送のために建設されました。以降の鉄道も炭鉱から港湾への石炭輸送、開拓地からの農産物や開拓者の輸送など、北海道開拓のためのインフラとしての役割を担っていました。

開拓使は本格的な炭鉱開発のため、1878年10月23日に媒田開採事務係を設置し、内陸部で採掘された石炭を小樽に運ぶ北海道の鉄道建設計画を開始しました。アメリカから招かれた技師長クロフォードの下に、日本人技術者として松本荘一郎らが任命されました。 この計画には、札幌農学校の学生であった佐藤勇ものちに加わっています。

北海道の測量は困難でしたが、幌内鉄道は1880年から建設に着手しました。この工事においてクロフォードは早く安い工事方法をとり、1880年11月28日には手宮・札幌間が開業しました。1881年の明治天皇御巡幸に間に合わせるためです。

1882年11月13日には札幌・幌内間が開通し、手宮・幌内間が全通しました。1883年9月17日には札幌で幌内鉄道開業式が挙行されています。この鉄道路線は、全国で3番目に開業した鉄道でした。開業式には小松宮彰仁親王をはじめ、陸軍卿大山巌、参謀本部次長の首我祐準、鉄道局長の井上勝らが参列しました。

クロフォードは幌内鉄道の第一期工事完成の後、松本副長と一緒に上京し、工務省の依頼を受け東京・青森間および東京・高崎間の鉄道路線を調査しています。
幌内鉄道では、鉄橋ではなく木橋が多用されました。当時は鉄橋を架ける材料も輸入する以外になかったからです。条(レール)、機関車客貨車、部品までの一切を外国製に依存し、その全てが米国からの船で運ばれ小樽に陸揚げされていました。

幌内鉄道の開通により、小樽港は石炭積出とともに内陸部への人や物資輸送という新たな役割を担うことになりました。 他に北海道開拓への影響としては、石狩原野の開発や、小樽から移民の上陸地となった沿線の札幌、遠軽、様似、江別、岩見沢などの都市が発達しました。

限られた制約条件の中で短期間に幌内鉄道を完成させられたのは、クロフォードの指導とともに松本、平井などの優秀な部下の存在が大きかったといえます。開拓使は1882年2月に廃止されましたが、計画に参加した札幌農学校出身者たちは、その後北海道の発展に大きな貢献をすることになりました。

北海道に鉄道が引かれたのは、第一に石炭の輸送のためでした。その後も物資の輸送や開拓者の輸送等が行われ、街が発展していきます。既にある都市を結ぶというよりは、鉄道の延伸とともに街ができていくというイメージでしょうか。この性格が今も残り、並行在来線の経営分離後も貨物線としての生き残りが検討されるのでしょう。

大村卓一の功績:石炭船積海上高架桟橋

大村卓一の北海道時代の大きな功績としては、計画・設計・施工を担当した小樽と室蘭の石炭船積海上高架桟橋があります。
増大する石炭輸送に、経費の面からも作業能率の面からも、従来の人肩荷役方式では対応しきれなくなってきていました。そこで大村は研究を重ね、当時の最先端技術を用いて海上高架桟橋を採用することになったのです。

この木造海上高架桟橋は、1907年から室蘭停車場構内埋立て拡張工事を開始し、1913年に完成しました。1910年2月に海上高架桟橋の建設工事に着手、1911年12月室蘭・手宮の2カ所が同時落成し、翌年1912年3月から使用を開始しています。同時に水深を干潮水面下26フィート以上とし、巨船が直ちに桟橋に係留できるようにしました。停車場前の旅客乗降用桟橋から北西一帯の沿岸で埋立てを行い、貨物上屋、共同荷揚場、木材置場などを設置し、軌道を延長して一般貨物の取り扱いを便利にしました。手宮停車場についても、1911年12月に落成しています。

この事業では、鉄道側で平地の少ない室蘭・小樽において大規模な埋立て事業を行い、その一部は港湾用地や道路用地として鉄道以外の公共機関などに譲渡されました。このことがのちの北海道の発展に大きく影響を及ぼしています。

室蘭の桟橋は西側上床面に石炭到着線各1線を敷設した、約3階建ての巨大な木造構造物です。停車場地上線から高架桟橋床上に達する連絡線路は、丘陵を利用して勾配をつけました。貨車は構内後方から桟橋上に押し上げられ、桟橋上を自走して止まり、穴の上でバケットを開けると石炭が落ち、スロープを通して横づけした貨物船に入る仕組みで、空になった貨車は折り返し戻ってきます。

石炭の正確なトン数を表示するため、桟橋上および側軌道の水平部分の床下には軌道計重台各一基を据付けました。進行中の石炭車を衡量する機器等については、大村たちは最先端の技術を研究して海外から調達したと思われます。

使用木材はほとんど北海道産のエゾマツおよびトドマツです。これらの木材には防虫薬液クレオソートを注入することになり、砂川駅構内石狩川河岸の鉄道用地内にクレオソート注油工場が作られました。

高架桟橋の完成により、石炭輸送専門貨車セキが使用されるようになり、貨車の形式も統一されました。
この高架桟橋の完成によって室蘭港は効率的な積込が可能となり、汽船の接岸荷役時代を迎えました。大村は高架桟橋積込法による利点として、以下の点を挙げています。

①積込費の低減
②積込力の増加
③積込量の正確さ
④積込みの際のロスの軽減

これにより、従来方式と比較して大幅なコスト減が実現できました。小樽および室蘭の年間石炭積出高は急増しました。水陸連絡設備の整備に伴い、本州移出や海外輸出が大幅に増大しています。当時の蒸気船は石炭を動力源としており、津軽海峡を通過して太平洋を横断する船舶の石炭補給基地としても、室蘭は好位置にありました。夕張炭は発熱量に富み、遠洋航海船の燃料に適していたのです。

木造建築による巨大桟橋の精巧さは、本書に掲載の写真や図で見ると驚くほどです。貨車が行きも帰りも勾配を利用して自走する方式は、日本独自のものでした。海上輸送と鉄道輸送を桟橋で直結する方式により、北海道の石炭輸送は大きく増大し、産業の発展に繋がりました。当時北海道の石炭は95%が鉄道で輸送されていました。鉄道はエネルギー輸送の大動脈だったのです。

満洲の経済的発展と鉄道技術史上の評価

満鉄の誕生は、日露戦争後のポーツマス条約の結果、東清鉄道南満洲支線とその附属利権を譲り受けたものです。満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で文事的施設を駆使した植民地統治を行う会社として位置づけられていました。

それまでの満鉄は、鉄道に加えて旅館や港湾、製油所、学校、試験場、調査部、研究所等を有しており、特に調査部と研究所は高い水準を維持していました。
満洲事変後、関東軍は満鉄コンツェルンを解体して鉄道事業に特化しました。満洲開発の意義は、対ソ防衛という国防上の理由の他、移民の受け入れ、農産物の生産拡大、石炭や石油などの資源の確保などが考えられます。その中で鉄道は、地域の開発促進、輸送時間とコストの短縮、地域の発展と産業の振興、 人々の福利厚生の向上に寄与しました。

大村が満鉄に副総裁および総裁として在任した 1935年~1943年には、貨物営業延長が1.42 倍になりました。これに伴い旅客収入も19.4倍、貨物収入も4.1倍となっています。特に旅客の伸び率が大きいのは、戦時下の兵力輸送、移民数の増加や経済活動の活発化によるものと考えられます。総収入も4.2倍と急増しています。それまで赤字続きであった鉄製油も、黒字に転換しています。同じ期間に満鉄職員も激増しており、労働力不足から特に中国人傭員の数が増え、1944年には全体の約65%になっています。

満鉄改組により多くの関連事業を国や他の組織に移譲し、採算性の悪い国線を抱えた満鉄が、大村の在任期間にたゆまぬ経営努力と改良工事を行い、社線と国線が一体化した鉄道ネットワークと効率的な輸送体系を実現させたのです。大村の時代に、満鉄は開拓鉄道から国家鉄道へ移行したと評価されています。
鉄道建設工事は技術的にも多くの成果をあげました。広軌鉄道の建設規定などは、戦後の新幹線整備にも活用されています。鉄道以外でも露天掘や液体空気利用の発破など、日本本土で見られない土木技術が採用されました。

鉄道技術面でも、満鉄の標準軌による特急あじあ号などは、最高速度130km/hの流線型の機関車、 全車完全空調付の固定編成など当時の世界的にも最先端の鉄道でした。

大陸における戦禍の拡大とともに東京・下関間の輸送力の強化が求められるようになり、鉄道省は1938年12月に弾丸列車計画を決定しましたが、戦争の激化で1943年には中断しています。しかしこの計画は戦後、標準軌の東海道新幹線の開業につながりました。

植民地の時代に導入された技術や培った人脈は、日本においては戦後の新幹線早期開業へと繋がりました。「弾丸列車計画」の詳細については、当社の交通ブックス『弾丸列車計画』をご参照ください。

『北海道の鉄道開拓者』内容紹介まとめ

先人たちが厳しい自然条件と戦いながら切り開いてきた北海道の産業・経済・文化。その礎となった鉄道網の開拓に大きく貢献した鉄道技師・大村卓一の人生を、北海道時代・大陸時代・生い立ちの三部構成で、豊富な資料をもとに振り返ります。彼の人生を追うことで、北海道の鉄道発展史の姿が見えてくるでしょう。

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カテゴリー:鉄道 
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