ソーラン節をはじめ、幾度となく歌の舞台になってきた北の海で、旧き時代に活躍した日本型の木造帆船、それが「北前船」である。この北前船が、21世紀に入って、静かなブームとなっている。例えば、2006(平成18)年に財団法人みちのく北方漁船博物館財団が北前型弁財船を復元して建造し(「みちのく丸」)、11年3月の東日本大震災の後に、震災復興支援事業として同年7月〜8月に日本海沿岸を航行し、各地でさまざまなイベントが行われた。そして、2007年からは北前船寄港地フォーラムが北海道・東北日本海沿岸地域を中心に年2回のペースで開催され、17年には一般社団法人北前船交流拡大機構が設立された。その後は、同機構が支援する形で、北前船寄港地フォーラムは定期的に開催されている。
経済界では、日本海沿岸地域の14道府県の経済同友会が、2008年から代表幹事サミットを開催し、日本海沿岸地域の人と経済の交流を進めている。また、2010年に現代版北前船プロジェクトが民間有志によって立ち上げられ、日本海沿岸各地で交流イベントを開催している。こうしたさまざまな活動を背景として、山形県酒田市など7道県11市町の北前船寄港地・船主集落が「日本遺産」として平成29年度に認定された。この北前船寄港地・船主集落へは、日本海沿岸・瀬戸内地域の市町がさらに追加参加し、現時点で16道府県49市町に広がった。
北前船がブームになっている背景には、社会の都市化・大衆化が進む一方で、人と人とのつながりが希薄になっている現代において、現代より人間関係が濃密であった旧き時代を振り返りつつ、もう一度いろいろな地域の人と文化の交流を深めたいとの強い希望が社会に現れてきているからと私には思われる。特に、中国・韓国との人や経済の交流が活発になった今こそ、日本海がより重要になるであろうと考えられる。実際、日本の歴史上でも、欧米との結びつきが強かった時代は、19世紀末以降の100年程度に過ぎず、ほとんどの時代の日本は、東アジア地域の一員として、朝鮮半島や中国との結びつきが強かった。そして、朝鮮半島と日本との交流ルートは、主に対馬海峡や日本海を経由していた。なお日本海という呼称については、さまざまな考え方があろうが、本書では特定の価値観を含めずに一般的呼称として「日本海」を用いる。そして東アジア諸国と日本との交流がより一層平和のうちに進展することを期待しつつ、19世紀日本における日本海航路で最も活躍した日本型帆船であった北前船の物語を届けたいと思う。
お正月になると、魚を食べる習慣があまりない家庭でも、もしかしたらある魚(と、その卵)を口にする機会が増えるかもしれません。お節に入っている数の子や昆布巻きには、ニシンが使われているからです。ニシンは漢字で「鰊」と書きますが、魚へんに非と書いて「鯡」という字もあります。この由来には諸説ありますが、実はニシンの漁場北海道では、ニシンは主に肥料として扱われていたのです。
その輸送に大活躍したのが、「北前船」です。稲作が定着する以前の北海道は、このニシンやコンブなどの海産物が運ばれていました。代わりに本州以南の木綿、米、塩、織物などが北海道に持ち込まれます。大量に獲れたニシンは安く、魚肥として喜ばれました。特に同じように使われていた房総のイワシが不漁によって衰退してからは、その勢いは増していきます。大漁の様子が「ソーラン節」でも歌われていますね。
今回ご紹介する『北前船の近代史』では、北前船が北海道と北前船主の地元、北前船主と交易を行った廻船問屋たちがどのように日本経済に影響を与えたのか、それぞれの経緯を分析することによって描き出します。ニシンから始まった貿易は、農業、工業だけでなく金融業や鉱山業、電力業にも影響を与え、農村・漁村と都市を結ぶ役割を果たし、日本の物流を変えました。北前船が役割を終えたとき、商品価格の地域間格差は縮まり、モノが産地から消費地へ迅速に運ばれる時代が訪れたのです。
この記事の著者
スタッフM:読書が好きなことはもちろん、読んだ本を要約することも趣味の一つ。趣味が講じて、コラムの担当に。
『北前船の近代史(2訂増補版)−海の豪商たちが遺したもの− 交通ブックス219』はこんな方におすすめ!
- 物流史に興味のある方
- 日本近現代史に興味のある方
- 北前船の寄港地について知りたい方
『北前船の近代史(2訂増補版)−海の豪商たちが遺したもの− 交通ブックス219』から抜粋して3つご紹介
『北前船の近代史』からいくつか抜粋してご紹介します。18~19世紀に北海道を目指し、本州・四国・九州の船主たちが船を出しました。この「北前船」が地元と北海道の産業・経済にどのような影響を与え、日本経済の発展にどのように寄与したのか、産地・輸送・集散地の動向を確認することによって明らかにします。
北海道漁業と北前船
1)ニシンの産地・北海道
江戸時代~明治時代前期の北海道では稲作は難しかったので、道内の主要産業は沿岸漁業でした。19世紀末から石炭業が発達し、開拓が進むと農業が定着し、苫小牧から室蘭にかけての沿岸に工業地帯が形成されました。しかしその後も、漁業は北海道の主要産業であり続けました。
19世紀の北海道漁業では、沿岸で漁獲された鯡(にしん)が中心でした。鯡は主に肥料として用いられました。鯡は春から夏にかけて、北方から北海道の日本海沿岸やオホーツク海沿岸に群来します。漁獲された鯡の大きなものは身の部分を食用にしましたが、身を取った残りや小さなものは肥料としました。
北海道産鮮魚肥は、主に日本海航路を経由して北陸・瀬戸内・畿内に運ばれ、19世紀後半には日本で最大の販売肥料として日本農業を支えました。日本海航路では20世紀初頭まで北前船が活躍しており、北海道産鯡魚肥は北前船の最大の積荷としてその主要な利益源泉となりました。
2)明治維新と北海道漁業
江戸時代の北海道において、北海道産鯡魚肥取引の主要な担い手は、場所請負人と北前船主でした。明治維新後に場所請負制度が廃止され、蝦夷地の漁場は広く一般の漁民に開放されます。旧場所請負人も、函館や旧請負場所(主にオホーツク海沿岸)へ転住して大規模に漁業を継続し、北海道漁獲物を自分の船で本州の主要港に運んで販売する垂直統合経営を維持しました。
特に、近江出身の柏屋藤野家や住吉屋西川家、江戸に本拠を置いた栖原屋栖原家などは、明治時代に漁業経営を拡大し、北海道を代表する巨大漁業家となりました。房総地方産の鰯魚肥が1880年代の不漁で衰退したため、それに代わって北海道産鯡魚肥が日本各地に普及します。優良漁場を確保していた旧場所請負人にとって、漁業経営拡大の絶好の機会が訪れたのです。
その一方で、鯡漁とあまり関係のない太平洋沿岸を請け負っていた函館港の旧場所請負人は、漁業から撤退して函館の行政に携わったり、函館の銀行設立に参加したりしました。
3)北前船主と三井物産の競争
北前船主は、北海道での交易場所が松前城下(福山)・箱館・江差の三湊に限らなくなったため、北海道奥地へ赴いて鯡魚肥を産地で直接買い付けるようになりました。
北海道市場の将来性に着目した三井物産も、北海道産鯡魚肥市場に参入してきました。函館・小樽に支店を設け、荷為替金融と汽船運賃積を組み合わせた委託販売方式で漁民から漁獲物を集荷しました。
三井物産より経営規模がかなり小さかった北海道の海産物商、北前船主、大阪の廻船問屋は、組合を作って共同歩調をとり、集団間の継続的取引を行うことで、三井物産に対抗します。幕末・維新期に巨額の利益を得た北前船はその資金力を活かして、漁獲物の買い付け資金を北海道の海産物商に前渡しし、大阪では魚肥の販売代金を後日払いとすることで、取引相手に事実上の資金融通を行いました。
こうした努力により、三井物産は十分なシェアを獲得することができず、結局19世紀末に北海道から一時的に撤退しました。地域の資本が強力に連携することで中央資本との競争に勝利したのです。
4)北前船主の漁業経営
20世紀に入り定期汽船航路が整備されると、地域間価格差が縮小して、北前船経営の利益率は大幅に減少しました。多くの北前船主が海運業から撤退しましたが、北海道漁業に進出してより安価な漁獲物の確保を目指した船主もいました。
20世紀初頭の北海道鯡漁業は、多数の船を所有しつつ近代期も巨大漁業家となった旧場所請負人や、漁場を所有するようになった北前船主などの巨大網元により主に担われるようになり、最盛期を迎えます。しかし彼らは、資本蓄積を漁業経営の拡大や取引相手への資金融通に専ら投入し、出身地元の銀行・会社設立にはあまり関与しませんでした。そのため、東京・大阪に比べて日本海沿岸地域の企業勃興は遅れることとなってしまいます。漁業・北前船経営そのものも鯡の不漁とともに衰退し、北前船主の多くは漁業・海運経営から撤退しました。
ニシン漁によって旧場所請負人や北前船主は大きな利益を得ますが、その利益を漁業関連の取引や事業拡大に注ぎ、北海道や船主の地元への投資には充てませんでした。漁業は漁獲に大きく左右されますが、不漁による撤退が別の産業への転換を促し、結果として地元経済が発展するという結果も現れました。
越中の北前船主
1)綿を運んだ越中廻船
近世期の越中国(富山県)は、新川地方で木綿生産が発達し、そこへの原料綿の供給を越中廻船が担っていました。代表例が、越中国放生津の綿屋(宮林)彦九郎家と越中国東岩瀬の道正屋(馬場)久兵衛家です。両家の廻船はともに年貢米の大坂への御用輸送も担っており、その下り荷として大坂や堺の綿を越中国に運んでいました。しかしその後、両家とも北海道へ進出しています。
19世紀中葉、越中の北前船主は、北陸地方と畿内・瀬戸内を結んでいました。積荷も庄内地城・北陸地域の年貢米、瀬戸内地域の塩、畿内の綿でした。しかしその後、産地間競争で新川木綿生産が衰退したため北海道へ進出し、その収益により富山県の耕地取得を進めたり、汽船を購入したりして汽船経営への転換を図っています。一般的な北前船主の盛衰から見ると、越中の北前船主は近代に入ってから北海道へ進出した新興の北前船主と位置付けられます。
2)越中廻船と北海道・北洋漁業
近代以降に北海道の漁獲量が増大すると、越中廻船の北海道進出はさらに強まり、富山県産米を北海道へ運んで販売し、北海道産魚肥を買い入れて富山県へ運んで販売するようになりました。こうして、北海道漁業と富山県農業が密接に結びついたのです。
富山県の北前船主は富山県で耕地を所有して小作農に農地を貸して農業を行わせたものも多く、富山県産米の北海道での販売と北海道産魚肥の富山県での販売は、自らも行った富山県での地主経営とも関連していました。
しかし北陸地方への官営鉄道の開通とともに、北海道産魚肥の富山県への物流がより一層汽船と鉄道を介して行われるようになると、北洋漁業への転身を図る北前船主が多くみられました。彼らの漁獲物が伏木港などに水揚げされることで、1910年代の富山県の水産物生産額は急増したのです。
3)富山県の銀行の北海道進出
富山県の北前船主は、農業と漁業の面で北海道と富山県を結びつける役割を果たしましたが、富山県内では銀行設立の担い手にもなりました。明治初年に明治新政府は、新たな商品流通機構として主要拠点に通商会社・為替会社を設立させ、北陸では金沢に為替会社が設立されました。この金沢為替会社の出資と経営の担い手になったのが、江戸時代からの有力な北前船主です。
1877(明治10)年に金沢で第十二国立銀行が誕生した際も、金沢為替会社の経営を担った北前船主らが出資と経営の主な担い手となりました。第十二国立銀行は、その後合併により富山に本店を置くこととなります。同行は富山県と物流と移住で深いつながりをもつ北海道へ積極的に支店を開設しました。第十二銀行に続いて第四十七銀行が小樽に支店を開設し、中越銀行、砺波銀行、高岡銀行なども北海道へ支店を開設しています。
こうした富山県の銀行が最終的に北陸銀行に合併されたことで、第二次世界大戦後に北陸銀行が、北海道金融界において道外本店銀行としては有力な地位を占め続けたのです。
富山の産業発展は銀行が先行しましたが、地元産の綿を活かした紡績工場、紡績工場への電力供給を目的とした電力会社、伏木港を拠点とする運輸会社と次々に中心産業が現れます。発展した伏木港に人造肥料工場を作ったのは、肥料輸送に関わってきた北前船主たちでした。しかし水力発電による安価な電力を目当てに製造会社が進出し工場地帯が成立する頃には、経済界の主役は北前船主から新興の資産家に交代していました。
松前問屋から北海産荷受問屋へ
18世紀後半には、北海道産魚肥も大坂市場で取引され始めました。19世紀に入ると移入量が増大したため、魚肥を中心とした北海道産物を専門に扱う荷受問屋が新しく登場し、東組松前問屋を結成し、その数は移入の増大とともに増えていきました。1841年の株仲間解散令の下でも松前問屋は松前荷受屋と名称を改めただけで、大坂市場での肥料取引の内実には変化がありませんでした。
幕府は蝦夷地を直轄すると、箱館産物会所を設けて北海道の流通統制に乗り出します。大坂では松前問屋はいずれも会所附仲買となり、産物会所が北海道産物を一手に取り扱うことになりました。会所附仲買は取扱高の3%の口銭を産物会所に上納しなくてはなりません。これまでの取り分の半分を産物会所に吸い上げられることになり、問屋・仲買は大きな打撃を受けました。このことへの反発から1861(文久元)年に会所附仲買は廃止され、問屋・仲買ともにそれぞれ鑑札を下付されて営業することになりました。こうした中で、北海道産魚肥が大坂へ移入される代表的な肥料になったのです。
明治に入ると、箱館産物(生産)会所が復活し、大坂荷揚げ分の北海道産物はすべて箱館生産会所を通す決まりとなりました。打撃を受けた松前問屋は自由売買を再三要求し、1869年に会所仕入品の外は自由売買が認められました。ところがそのため、多数の新興商人が独自の取引を行い始めて市場は混乱しました。
それに対し、江戸時代以来の大阪廻船問屋は、不正取引を排除する目的で、1873年に諸国荷受問屋組合を結成し、松前問屋もそれに加わりました。しかし商取引の慣行の違いから、諸国荷受問屋組合が統一した取引形態をとることは困難でした。結局1878年に北海道産物を扱う荷受問屋が組合を脱退して別に荷受問屋一番組(のちに北海産荷受問屋組合)を結成しました。
こうして東組松前問屋を引き継ぐ形で荷受問屋一番組が結成され、北前船から北海道産物を引き受けて仲買商へ売るようになりました。1870年代後半に大阪港に移入された肥料を主に扱ったのは、荷受問屋一番組のメンバーでした。江戸時代以来の廻船問屋が明治時代前期も北前船との中心的な取引相手であり続けたのです。
大坂では、荷受問屋一番組から魚肥を購入する側の仲買商も仲間組織として肥物商仲間組合を結成し、荷受問屋一番組と約定を結びました。その結果、荷受問屋一番組は肥料をすべて肥物商仲間に販売し、肥物商仲間も直接大阪に船で移入された北海道産肥料はすべて荷受問屋一番組を通して買い入れることとなりました。
北前船と荷受問屋との取引は、北前船が魚肥の肥料商への販売を荷受問屋に委託して積荷を預け、荷受問屋が肥料商と価格を取り決めて売買し、代金から手数料を差し引いて残りを北前船に渡す形で行われました。また荷受問屋が積荷を買い取って肥料商に販売する場合もあります。
こうした北前船と荷受問屋との取引慣行は、北前船の組合であった北陸親議会と荷受問屋組合との交渉で決められ、大阪北海産荷受問屋組合は、北前船の主要な取引港であった兵庫・撫養・徳島の荷受問屋組合とも連携して北陸親議会との交渉にあたりました。その交渉で決められた取引慣行を、北陸親議会は瀬戸内海各港の廻船問屋へも要求していきました。大阪での取引慣行が、大阪湾や瀬戸内海全体の北前船と廻船問屋の基準となっていったのです。
実は大坂の北海道産物仲買商は、大坂以外の地域の商人から北海道産物を密かに買い入れていました。当然大坂松前問屋は自分たちから買い入れるように求めましたが、仲買の方は廻船問屋が問屋に支払う手数料が多いから取引が減ったのだと抗議し、手数料を下げさせるよう交渉しました。こうして交渉を繰り返すことで、地域の商習慣が作られていきました。
『北前船の近代史(2訂増補版)−海の豪商たちが遺したもの− 交通ブックス219』内容紹介まとめ
18~19世紀、日本経済に大きな影響を与えた北前船。地域間の価格差に着目して大きな利益を上げ、日本の国内市場の拡大に繋がりました。北海道、各地の船主、北前船と取引を行った廻船問屋等の動向をまとめ、その影響を明らかにします。
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物流・輸送の歴史!おすすめ3選
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『文明の物流史観』
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