著者名: | 田村幸雄 著/内田武士 編 |
ISBN: | 978-4-425-98271-4 |
発行年月日: | 2015/6/29 |
サイズ/頁数: | A5判 256頁 |
在庫状況: | 品切れ |
価格 | ¥4,015円(税込) |
「田村幸雄の命を懸けた『健兵対策 軍隊給養改善』の背景」より
明治26年7月27日生まれの田村幸雄は大正5年5月20日、陸軍経理学校を卒業以後、近衛師団経理部(竹橋)、国府台野砲16聯隊、朝鮮野砲26聯隊、近衛師団四街道、台湾山砲兵大隊、浜田歩兵第21聯隊、満州歩兵第68聯隊、を経て昭和11年3月7日、陸軍戸山学校(牛込区戸山町)へ転任した。その最大の収穫は運動と給養関係の研究の機会を得たことである。
例えば、睡眠の時は1分間に何カロリー消耗され、歩行の時は何カロリー、体操の時は何カロリー、剣術の時は何カロリー、突撃の時は何カロリーというふうにあらゆる運動量に対してその消耗量の値を整理して給養の基礎資料としたのであった。また、ビタミンB1、B2、B6、B12 、等の研究はされていたがこれらを給養の面に利用したことはなかったのである。戸山学校への赴任がきっかけで兵食給養上の種々な原則を知ることができたのである。日頃から魚釣り、雉打ち・鳥打ち等が好きで転任地においていつも楽しんでいたがそれだけに常々、「糧食の経理を深く研究して、大陸軍のために貢献せんものと深く決心した」ものでこれにより、日頃から高等科への進学を進めてくれていた深沢清吉教官や高橋経理部長への恩返しができると考えていたのであった。一念発起して糧食給養の研究に精を出したのであった。勤務から帰ると書斎に閉じこもり、栄養に関する本は全て読んだ、また医者の本もたくさん読んだ。これによって「糧食給養の研究」「見直さるべき野菜の給養」「酵素給養の研究」等多くの研究論文を主計団記事に発表することができたのである。
さらには現在の栄養学の基礎となる「バランス」の良い食材の配合による献立表を確立したのであった。
昭和12年9月15日、陸軍戦車学校(千葉県稲毛)に転任した。戸山学校での種々な研究が実際に活用できる機会を与えられたのであった。
早速に兵食給養の改善に取り掛かった。各種食材の配合、炊事場の改善、調理士の向上、衛生面の管理、等の改善によって兵隊の健康状態も見違えるように改善され病人もいなくなったのである。一方その頃、千葉県内で赤痢が大流行していたが、炊事場の消毒、日頃の衛生管理によって戦車学校においては ついに一人の患者も出さなかったのである。山田教育総監からもお褒めの言葉を頂いたものである。
この戦車学校での給養改善が高く評価されて昭和14年11月10日、陸軍士官学校(神奈川県座間)の教官に抜擢されたのであった。この頃、座間には2期併せて約2千人の軍人がおり、非常に多くの軍人が苦しんでいたのであった。赴任の目的は明らかにその病気の軍人を健康な体に戻すことであった。
早速、原因を調査したところ、肉や魚が多いこと、野菜の少ないこと、酸性過剰であることに気が付いた。カード式献立を作成して、肉、魚の量を減らして野菜の量を増やし、標準分量を定めて栄養が弱アルカリ性になるように食品の配合を規正した。
その結果、1年後には病人の数を90%減少することができたのである。昭和16年12月、陸軍主計中佐の時、念願の「健兵対策 軍隊給養改善」四六版6百頁を陸軍士官学校から出版したのであった。
業績がいよいよ評価されて、陸軍糧秣本廠研究科長であると同時に食糧学校の教官、会計監督官、戦車学校の教官、科学技術審議会専門委員、陸軍中野学校の教官、糧秣本廠青年学校の校長、ハト麦協会委員等の役職を兼務して東南アジア戦地を含む陸軍全体の給養改善の指導に努めたのである。
これは戸山学校へ赴任して以来「糧食の経理を深く研究して、大陸軍のために貢献せんものと深く決心したもの」――これがまさに実現開花したものである。
さらには士官学校の赤紫少将から士官学校の中軸となる幼年学校の給養改善をも依頼されて、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本へ出張指導に出かけたのである。出張調査の結果を総合するとどこも程度の差はあれどいずれも食品の配合バランスは酸性過剰であった。
給養と法律の学科を担当して広く指導に当たり、生徒の中には賀陽の宮様もおられた。天皇陛下(当時、皇太子)の御前講演もこの「健兵対策 軍隊給養改善」を使用して行っている。本書物の給養改善により健康回復した実績事項については、第12章、第章にて各学校、工場、寄宿舎、士官学校等、それぞれについて詳細に記載されている。
また、戦いが深まるに至っては ダナン、サイゴン、タイ国、ビルマ、シンガポール、ラバウル、ブーゲンビル島、サイパン島、満州等へと、海外の戦地に趣き出張指導に廻ったのであった。
終戦近くになると 陸軍糧秣本廠の教育部も 長野県美代田へと移っており、終戦時には出張中のこともあり、本人の背丈程の高さになる程の多くの給養改善関係の書物までもが他の重要書類とともに全て焼き捨てられて灰に帰してしまった。手元にあるのはこの「健兵対策 軍隊給養改善」のみである。日清戦争(1894-1895) 及び日露戦争(1904‐1905)時代に遡り、陸軍の軍人の健康状態につき記載しておきたい。日清戦争では脚気患者41,000人、脚気病死者4,000人を出しており、日露戦争では脚気患者250,000人、脚気病死者28,000人を出している。夥しい数の病人である。
一方、海軍の方は海軍軍医であった高木兼寛氏の主張した「脚気はビタミンB不足に依る」ことよりパン食等を取り入れており、両戦争においてほとんど脚気患者を出してはいないのである。
この「脚気論争」は日本最初の医学論争と言われており、陸軍側は 陸軍医務局長 森林太郎氏等が脚気は脚気菌に依る伝染病であると長期間主張していたのである。結論は大正13年(1924)に出されており、高木軍医側の勝利となっているのである。
しかしながら、昭和の時代に入ってもなお、陸軍においては 病人が後から後から増えると言う悪循環が継続していたのである。(出典:吉村昭『白い航跡』より)
原稿を書いている平成26年(2014)は、NHKの朝のドラマで「花子とアン」を放映している。
「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子も田村幸雄と同じ明治26年(1893)、同じ故郷山梨の生まれであり、お互いに日清・日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を駆け抜けてきているのである。
大地震、集中豪雨、台風、御嶽山の噴火等、後から後から自然災害がやってくる。一方、高齢化社会で生活習慣病が増えている。この本に記載された、著者が「正食」と位置づけている、言わば「究極のミリタリー飯・患者食」が、現在の非常食・被災食・患者食の参考資料となれば幸いである。
編集者 内田武士
【目次】
第一章 総論
一 健康と時代の流れ
二 時流の原因は何か
三 時代の流れと栄養
四 不健康者の増加する理由
五 兵員資質の改善と国民給養
六 軍隊給養改善の著眼
第二章 栄養事項
一 栄養の意義
二 人体を構成する物質
三 人体と食物との関係
四 蛋白質の重要性とその必要量
五 脂肪の重要性とその必要量
六 含水炭素の重要性とその必要量
七 無機塩類の重要性とその必要量
八 酵素の重要性とその性状
九 ホルモンの重要性とその性状
十 ビタミンの重要性とその性状
第三章 分量事項
一 熱量の計算
二 主食及び副食の分量
三 給養標準分量表の作製
四 標準分量の使ひ方
五 補助栄養素補給分量
六 栄養分析
第四章 計画事項
一 給養方針の必要
二 軍隊における給養計画の一例
三 給養定量及び定額の決定
四 野外における定量定額の決定
五 献立の調製
六 野外献立の調製
第五章 注意事項
一 食品使用期間の注意
二 基本栄養素配合上の注意
三 補助栄養素選定配合上の注意
四 給養品準備上の注意五 食品自然の性情と使用上の注意
六 現地物資の成分と給養上の注意
第六章 調理事項
一 主食の炊き方
二 調理の着眼 其の一(生物、酢物、浸物、和物)
三 同 其の二(煮物、汁物、焼物、掛物)
四 同 其の三(蒸物、揚物、炒物、茹物、其他)
五 廃棄量の減少
六 栄養逃失の防止
第七章 摂食事項
一 食事分配
二 料理の鑑別と摂食要領
三 噛む事の必要
四 消化の意義と考へ方
五 食味と消化液との関係
六 補足栄養食
第八章 考察事項
一 病気は何故起るか
二 いかにせば病気は治るか
三 優良体格者を造る道
四 食餌療法と其の考へ方
五 患者食に対する考へ方
六 夏痩せはいかに考ふべきか
第九章 予防事項
一 伝染病の予防
二 食中毒の防止
三 身体抵抗力の増進
四 家庭内外の偏食防止
五 残飯及び酒保売上の増加防止
六 嗜好及び食習慣上の偏見防止
第十章 食品事項
一 主食及び其の代用品
二 肉類及び魚類
三 生野菜類
四 乾物類
五 豆腐類及び漬物類
六 調味品その他
第十一章 改善事項
一 食事業者の改善
二 食品加工ところ理の改善
三 統計調査の改善
四 健康の準備と生活改善
五 学校教育の改善
六 炊事用具の改善
第十二章 實跡事項
一 自己疾病克服の實跡
二 正食に依る疾病克服の實跡
三 某校における給養改善と實跡
四 某校における給養と其の實跡
五 工場給養の改善と其の實跡
六 合衆給養改善の實跡
第十三章 結論
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